歴史

もうすぐ終戦の日 平和塔を訪ねました

終戦の日が近づいています。前橋東小の南西に、戦争の犠牲を今に伝える「平和塔」があります。向かって左側には小さな石碑があり、風化して判読が難しくなっていますが、小さな文字がびっしりと刻まれていました。戦死者の氏名だと思われます。

群馬郡東村誌によると、太平洋戦争の戦地で亡くなった村の戦死者は161人。一方で、村に空襲被害があったことも村誌は伝えています。長くなりますが、引用していきます。

更に空襲は激しくなり、(昭和20年)七月十日頃と思われるが、農家は手不足で未だ田植えが終わらない日中、突然空襲警報が発令された。その内に東南方より米機艦載機グラマン戦闘機が数機編隊を以て数回に亘って襲来した。農耕中の婦女子も露天に逃げ惑い、或いは桑園に或いは土手の陰に隠れるなど、実に悲惨の有様であった。

この空襲により逃げ遅れた1人が亡くなったとあります。前橋市街地を中心街に535人の犠牲者を出した8月5日の前橋空襲についても書かれていました。

遂に八月五日前橋市及びその付近が大空襲を受けた。夜十時頃敵機襲来と同時に前橋市上空に照明弾が最初に投下された。燈火管制下に於ける市街は赤々と照らされるや、次々と襲来するB29の焼夷弾の投下が始まり、同時に随所に火災が起る、これを消火するよりも自身並びに家族の避難の方が懸命である。右往左往して群衆は公園又は二子山等へ逃れる。敵機はこれを追って機銃掃射するという残酷な有様であった。

東村や周辺についても具体的に記述がありました。当時の様子を生々しく伝えています。

新前橋駅附近のライジングサン石油会社をはじめ、その附近一帯の商店、工場が一面火の海と化して焼失したのである。近くの理研工場にも焼夷弾は相当落下したが、消火したため、災火を逃れたが、元総社村本村並びに上石倉中央部も相当罹災した。(中略)石油会社など翌日も一日中燃えたが、石油であるので水が掛けられない、全く燃えるままであった。

この空襲で前箱田並びに江田南西方面も相当焼夷弾は落下したが、幸い人家がなかったので火災は逃れたが、作物の被害は随分あった。

八月十四日の夜の空襲については次のように書かれています。

勿論前橋市が中心であったが、その周辺町村も相当に広く空襲を受けた。本村は上新田中央部より、後家・東箱田並びに西箱田の一部に亘って大空襲を蒙ったのである。今回は焼夷弾の外に爆弾も投下されたので被害も甚大で、上新田の中央部にあった公会堂には供出された大・小麦が五、六百俵もあったが、それが大部分火災で被害を受けた。又本村としても余り火災の範囲が拡大したのと、何時次の部落が空襲されるか不明なので中々他部落へ消防も応援に出掛けられない、全くもがままの有様であった。江田の消防組も、もう空襲も終わったようだから応援に出掛けようとしたとたん、一機襲来と同時に爆弾投下があって驚いて引っ込んだ。それが東国府へ落下して大火災となったのが全く空襲の最後と思われた。

今年は戦後73年。訪れた8月7日、平和塔はひっそりと雨に濡れていました。郷土かるた「あずまかるた」では、こううたわれています。「平和塔 誓いも固く手を合わせ」

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