東地区の人々が東小校長先生のお墓を建てた? 「高原智作先生」とは

前橋東地区に住んでいる人なら通勤や通学途中、目にする人も多いと思いますが、東小北側、箱田観音堂脇に「高原智作先生墓」があります。道路に面し、見上げるほどの大きなお墓です。

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政治家など、この地域の有力者と思っていました。近所の人から東小の校長先生だったと聞いて驚きました。

自分の経験では、教師が赴任した先の地域の人々が、教師のお墓を建てたという話は聞いたことがありません。よほどの人徳者で、地元の人たちから好かれたのでしょう。

墓の裏には高原先生の歩みが書かれていました。文字は薄れ、漢文で書かれているので正確に読めるか不安がありますが、判読してみると、高原先生は明治13年5月4日、吾妻郡六合村(現中之条町)に生まれました。群馬県師範学校を卒業し、教師となります。山田郡第二高等小学校を皮切りに、利根郡片品村高等小学校、吉井(現高崎市)、岩鼻(同)、渋川の学校などで教鞭をとりました。

そして、大正12年に群馬郡東村の東尋常高等小学校(東小)に着任し、昭和3年12月に病気のために亡くなりました。「村葬」を挙げたとの記述がありますが、この場合の「村」は、村葬の場所が「校庭」とありますので、故郷の六合村ではなく、赴任していた東村を指しているのでしょう。

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高原先生の墓の裏には刻まれた経歴。昭和3年12月に亡くなってから間もない昭和4年3月に、墓は建てられたとあります。

お墓というならば埋葬されていると考えるのが普通です。碑文には「分骨」の文字があります。故郷の墓に埋葬されるとともに、東村の村民が高原先生を悼み、分骨してもらい、お墓をつくったのだろうと推測しました。

近所の人の話によると、最近、子孫の方がお墓を訪ねてきたそうです。東地区に、ここまで住民に慕われた校長先生がいたと思うと、うれしくなりました。もう少し詳しいことが分かりましたら、また報告します。

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