前橋南西部なのに、どうして「東地区」 前橋学センター長 手島仁さんに聞く地域の歴史㊤

 前橋市東地区はどのような歴史を持つのでしょうか。郷土の歴史に詳しい前橋学センターの手島仁センター長に、地域の成り立ちについて聞きました。

 明治22(1889)年に、箱田や上新田、古市など10村が合併し、東村ができます。昭和29(1954)年に前橋市と合併して東村は東地区となりました。もともと、どんな地域だったのでしょうか?

 東地区には、かつて、船で利根川を渡るための真政(さねまさ)の渡しがあり、交通の要衝でした。利根川東部と西部との往来には、みな真政の渡しを使っていました。また、あずま道(東山道)も通っており、街道筋としても発展したのでしょう。  

 渡しを通らなければ利根川の東側に行けなかったのですか?  

 利根川は前橋発展の障害でした。利根川に橋が掛かるのは明治18(1885)年、利根橋が最初。真政の渡しは大動脈でした。その下流にいくと、公田と萩原の渡しがありました。  

 前橋の南西部に位置しながら、なぜ東地区と呼ぶのでしょうか?

  明治22年の合併では、この辺りは西群馬郡でした。西群馬郡の一番東にあったことから、東村という名前にしたと考えられます。あずま道が通っていることも理由の一つではないでしょうか。明治29(1896)年に群馬郡ができ、群馬郡東村になります。群馬県には群馬郡と勢多郡、吾妻郡、利根郡、四つの郡それぞれに東村がありました。  
 
 群馬郡は大郡でした。北は渋川、南は玉村北部まである、県内で最も大きな郡でした。明治29年から大正12年までの郡というのは単なる行政の区域ということではなく自治体です。郡長がいて、郡議会議員がいました。この地方自治制度を主導した山県有朋はプロシアに憧れを持っていました。遅れて工業化したのにフランスを破ったプロシアを、山形は尊敬していました。そして、ビスマルクのように帝国を目指そうとしました。プロシアのように県、郡、市町村と、三階級の地方自治制度を実現しようとしました。  
    
 ところが、議会にかけると、郡はやはり余分だということになった。イギリスのように二階級でいいということになります。なかなか郡制というのは通らなかった。市町村という自治体が先にでき、郡だけは遅れて明治29年にできました。それまでは西群馬郡など、地域の呼称や区域としてはありましたが、自治体ではありませんでした。郡役場ができた後は、東村も郡役場から指導を受けました。その郡役場は高崎にありました。群馬郡は高崎と親しくなっていきます。  

 ところが、群馬郡東村は前橋との合併を選択します。次回は合併についてのお話です。

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