前橋東地区の歴史について、前橋学センター長の手島仁さんに聞くシリーズ2回目です。
同じ群馬郡でも、隣接する萩原町や大沢町は高崎です。
萩原や大沢と、東地区の新田は生活圏も変わらないと思いますが、昭和の大合併は県が試案をつくり、主導しました。
県内では大反対運動が起こる地域もありましたが、東村は住民に温度差はあったのでしょうが、前橋市との合併に対し、それほど強い反対はありませんでした。
一つには、地域の有力者が前橋の旧制中学を卒業していることも理由だったと考えられます。
この辺りは農村地域で、勢多農に行く人が多かった。
そういう人たちが卒業し、地域の有力者となり、物事を決めていくことになる。
前橋に親和性があったのではないでしょうか。
前橋中学を卒業する人もいました。前橋との合併に対し、抵抗はなかったのではないかと思います。
大正10年にできたときから「新前橋駅」でした。面白いですよね。
鉄道も橋がなかったために、利根川の東に行けず設けられた「前橋ステーション」も、利根川西部の石倉にありました。
人口増加や高度成長を背景に、総社、元総社地区には工業団地が、そして、東地区には、県企業局によって、県内初の大規模住宅団地となる大利根住宅団地が造成されます。
合併地域にとって、合併の恩恵として受け止められたと考えられます。
東地区には、大利根団地に加え、その後、光が丘団地も造られ、人口が増えていきます。
次回最終回は東村の名物や著名人についてのお話です。