昭和初頭、前橋東地区の人々が、亡くなった東小校長、高原智作先生のお墓を建てました。
今も小学校北、箱田観音堂近くにあります。前回記事では、墓石の裏に刻まれた金石文から判読できることを書きました。
より詳しいことが、昭和53年に発行された「東小学校百年誌」の1節(83~85P)にありましたので紹介します。
「大正期の本校の教育を語る場合、高原智作先生の存在を忘れてはならない」。書き出しは、こうあります。
同誌によると、高原先生は大正10年8月20日に着任、昭和3年12月25日に病気のため亡くなりました。
その間、「本校の教育を充実発展させるのに大いに貢献された」。運動の指導に力を入れ、児童は各種競技会で優秀な成績を収め、その人柄は「非常に温厚で、誠実勤勉な校長先生だった」とあります。
高原先生の教え子だった柳井角次郎さんという方が、思い出をつづった文章を寄せています。少し長くなりますが、引用します。
私たちが高等科になった時、中里弥太郎校長先生の後任に高原智作先生が着任されてきました。先生は吾妻郡六合村のご出身で、非常に質素な方でした。いつも詰めえりの洋服を着ていて、キザミたばこをがん首キセルで吸っておられた姿を今でも覚えております。質素倹約を旨とし、それを身をもって示された方でした。体操にも力を入れ、寒中、教室の中に閉じこもっていると、必ずまわってこられて「外に出て運動しろよ!」とよくしかられたものです。
ある習字の時間のことでした。私たちの頃は書き方用紙というものがあって、昔、寺小屋で使ったような半紙を綴って練習帳にしたものでした。
たまたま、私が正月に神様にお供えした時に使った半紙で茶色のしみが残っていたのを練習帳にしていたら、先生がそれをご覧になってとてもほめてくれたのをよく覚えております。質素倹約を旨とされた先生の人柄が思われます。
たいへん立派なよい先生でしたが、残念なことに昭和三年に病のためにお亡くなりになりました。村では先生の功績をたたえ盛大な村葬をもって先生をおおくりいたしました。私たちもその時は青年団の役員をしておりましたので、先生の徳に報いるために石碑を建立することに決め、いろいろ努力しました。今の観音堂内にある碑はそうして建てられたものです。
高原先生と教え子との交流が、脳裏に浮かんできます。
旧六合村出身の先生が亡くなった後、赴任先の東地区の人々がお墓を建てるというのは、よほど慕われていたのでしょう。
ちなみに、東小百年誌は先日紹介したコミュニティーカフェ「はじめの一歩」(前橋市上新田町)にありました。
興味のある方はご覧になってみてください!