もうすぐ年末年始ということで、歩いていても寺社仏閣に目が行くようになってきました。境内には「初詣」ののぼり旗が立てられているところも多い。令和になって初めて迎える正月とあって、新時代を祝い、例年以上に参拝者の多い正月になるかもしれません。
今回紹介するのは前橋市川曲町の諏訪神社。小さな建物・境内ですが、手入れがいき届いていて、地元の人たちから大事にされていることが伝わってきます。境内の解説を読むと、高崎市倉賀野とのゆかりが深く、興味深い歴史も綴られていました。
諏訪神社はケーズデンキ前橋川曲店南側を東西に走る道路を東に進み、滝川を越えて少し行った左側にあります。すぐ西隣は「川曲公民館」で、この辺りは地元コミュニティーの中心的な場所。趣のある大きなマツが鳥居の横1本と本堂の裏に2本立っています。
滝川用水工事成功のお礼
境内には「天皇陛下御即位 奉祝令和」と書かれたのぼり旗が掲げられていました。由来を解説した案内板が二つあり、そのうち一つは「令和元年十月九日」の日付なので、最近設置されたことが分かります。もう一つのものは文章末尾の日付が「昭和十一年四月九日」ですが、こちらも新しく、取り付けられて間もないようですね。
解説によると、神社の創建年代は不明ですが、慶長十一年(1606年)、前橋総社藩の初代領主秋元越中守長朝は、滝川用水(天狗岩用水)を切り開いた時に、この諏訪神社に祈ったところ、工事がうまくいき、そのお礼として、六畝六歩の土地を神社に寄付したとあります。
江戸時代の寛文七(1667)年末に当時の領主である高崎藩主、安藤対馬守が検地を行った時に「除け地」として非課税の土地になったとも説明がありました。除け地というのは幕府や大名から年貢を免除された土地のこと。由緒ある寺社の境内などが対象となります。用水工事がうまくいったから「霊験あらたか」と考えられたのではないでしょうか。
千輝玉斎の天井絵
川曲の諏訪神社には興味深い歴史があります。境内の解説には次のように記述されています。「明治四十二年三月五日倉賀野神社に合祀となった稲荷神社社殿を譲り受け、当社に移築した拝殿の木鼻に狐の彫刻、拝殿天井に百花草木、動物、鳥等の板絵五十枚は玉村宿の絵師千輝玉斎(ちぎら・ぎょくさい)が描いたものである」。
地元の人々が郷土を散策して歴史を記した冊子「あずまてくてく」には、このことがもう少し詳しく書かれています。「倉賀野神社で明治四十三年三月の売買契約書が発見され、川曲の諏訪神社は倉賀野町横町の三光寺冠稲荷の社殿を八十四円で書い移築した」。こういう歴史があるのは面白いですね。
千輝玉斎は1790年中之条生まれ。婿入りして玉村に住むようになり、雅号の「玉」は玉村にちなみました。絵画やてんこく、彫刻など多方面で才能を発揮し、当時の暮らしぶりが分かる「豊年満作之図」など作品は玉村町重要文化財に指定されています。1872年に亡くなりましたが、玉村や中之条には多くの作品が残されています。
戦地へ向かう人を激励
「あずまてくてく」には、諏訪神社にまつわる切ないエピソードも紹介されています。戦時中、村人がこの神社に集まり、出征する人を激励し、万歳で送り出しました。学校から帰った子どもたちも新前橋駅まで歩いて見送ったとあります。戦地に向かう若い人たちが駅まで児童と共に歩いて行った場面を想像すると、何とも言えない気持ちになります。
ちょっと脇道に逸れますが、この冊子に載っているように誰かが書き留めなければ消えてしまう一般の人々の「無名の歴史」を記録しておく意味を感じます。人々が織り成す風景が、読んだ人の頭に浮かび上がるような情景描写があれば、時が過ぎても人々の心の中で再現される。その意味で、この本は貴重な本だと思います。
社殿の隣は川曲町公民館となっていますが、あずまてくてくによると、この辺りに昭和二十九年頃、託児所が設けられました。このように農繁期に子どもたちを預かる場所が東地区には三ヶ所あったといいます。江戸時代には寺子屋があり、今の学校のような役割を果たした寺と同じように、神社は今より人々が気軽に訪れ、コミュニティー形成の中心的な役割を担っていたように思いました。
川曲の諏訪神社は平成28(2016)年に社殿が全面改装され、朱塗りの鳥居が設置されました。隣の川曲公民館も建て替えられており、全体がきれいになっています。
神社の近くには剣道の天覧大会にも出場した故・柴田正美さんが開設した上毛源流会振武館や、「稲荷の薬師様」「猿田彦大神の石塔群」があります。川曲町や隣接する稲荷新田町には小さいながらも歴史的な文化財が残っており、散策するにはなかなか楽しいところ。まち歩きに出かけてみてはどうでしょうか。