元前橋市長の萩原弥惣治氏が4月5日に病気のため亡くなったと、新聞各紙が報じました。
山本龍市長、高木政夫前市長の前、2期8年間市長を間務め、合併や国際交流などに尽力しました。
県議会議長から市長に
訃報を知り、萩原氏が平成25年に出版した「生涯報恩 人はみな師なり」を読み返してみました。
著書などによると、萩原氏は勢多農林高校を卒業後上京し、講道館などで柔道に打ち込みました。
地元に戻ってからは青年団活動に力を入れ、群馬県青年団連合会長を務め、昭和44年、35歳で前橋市議に初当選しました。
昭和54年に群馬県議会議員となり、その後、自民党県連幹事長を3期務めるなど、県政界のまとめ役を果たしました。
県議会議長在任中、前橋市長選に出馬を表明し、平成8年2月に当選し、3期目を目指した平成16年2月の市長選で新人の高木氏にやぶれました。
萩原氏の市長時代の功績としては合併の道筋を付けたことがいわれています。
平成13年8月9、10日、萩原氏は大胡、宮城、粕川、富士見の4町村長とともに新潟県寺泊町の臨海学校を視察する際、宿泊した弥彦村で行われた会談で市町村合併についての意見交換を行いました。
結果、「合併特例法の期限までに各市町村がそれぞれ前向きに努力し、熟度の高まった市町村から順次合併する」ことを確認。一般市民には青天の霹靂、驚きを持って受け止められましたが、この合意により合併に向け協議が動き出しました。
この会談は「弥彦会談」ともいわれ、今でも語り継がれています。
紆余曲折を経ながら平成16年12月5日に前橋市、大胡町、宮城村、粕川村が合併し、新「前橋市」が誕生。富士見村とは平成21年5月に合併し、現在の市域になりました。
このあたりの経緯は市のホームページに載っているので、ご参照ください。
新市が誕生したとき、萩原氏は市長の任にはありませんでしたが、合併の流れをつくりました。
そのほか何かとライバル関係にある高崎市との連携を深めようと、平成10年1月に前橋・高崎連携市長会議を始めました。
現在も行われており、両市のホームページによると、これまでに合意した連携事業は27事業。前橋市民が高崎市の保育所を利用でき、また、高崎市民も前橋市の保育所を利用できる「管外保育」の実施や、都市計画道路の共同整備、美術館の連携など多岐にわたります。
著書「生涯報恩」では、イタリア・オルビエート市や米国・バーミングハム市との友好都市提携にも触れています。
歴史の評価にゆだねられる合併の判断
政治家の功績というのは、リアルタイムで評価することは難しい。
引退後一定程度の時間がたち、振り返ったときに、政治家の判断が評価できる。
合併自体の評価は半世紀、100年たったときにわかるものかもしれません。ずっと評価され続ける政治家の仕事は重みがあります。
20年前の弥彦会談で、前橋は合併に大きく動き出しました。
前橋が今の形をしているのは、萩原氏の功績が大きい。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。