面影は残っていませんが、新前橋駅の北西に、かつて「群馬社」という組合製糸の工場がありました。群馬県と言えば、世界遺産になっている富岡製糸場が有名ですが、群馬社は組合製糸場として全国一の規模を誇り、1000人以上の従業員が働いていました。ただ、繁栄は長く続かず、「群馬社事件」と呼ばれる社長の自死に至った悲劇にみまわれ、その後、業績も回復せず、歴史から姿を消しました。同社の歩みを調べてみました。
前橋東公民館と地域住民が毎月発行する「東だより」に、「あずまが村だった頃」という連載がありました。地域のお年寄りの古い記憶が記されており、群馬社にも触れています。
「あずまが村だった頃」によると、群馬社の近くに農業用水が流れ、地元の人たちはその用水を「群馬社の川」と呼んでいたといいます。以下引用になります。
群馬社というのは、新前橋駅の北にあった大きな製糸工場で、その廃水が流れ込んでいた「群馬社の川」では、鯉、鯰、鮒など小魚が沢山とれたのです。夏の夕立や台風などで増水する時と、秋の彼岸過ぎに用水路の水を落とした時に、子ども達が集まってきて競争のように魚とりが始まります。家並には石垣があり、その間に潜んでいる鯰を手探りでつかみどりをしました。上手な人は何匹もつかんで道に投げ出すのだが、鯰が跳ねるのを羨ましく見ていたものです。
「あずまが村だった頃」より
長閑な田園がたくさん残っていた時代の空気感が伝わってきます。直接的な記述はありませんが、農業用水の通称として「群馬社の川」と呼ばれるぐらい、製糸工場が生活の中に溶け込んでいたことをうかがわせます。
ここからは群馬社の歴史を見ていきましょう。時代は昭和初期にさかのぼります。
昭和2年(1927年)に群馬県が主導し、有限責任組合「群馬社」が設立され、本社工場は現在の前橋市元総社町稲葉地区(群馬社会福祉専門学校周辺)に建てられました。
社長には当時、富岡製糸所長だった大久保佐一が要請されて兼任で就きました。
群馬の農業や蚕糸業の歴史に詳しい宮崎俊弥さんの著書 「近代まえばし史話」には、こう記されています。
やり手の経営者だった大久保は拡大路線をひた走ります。富岡製糸所長を務めており、経営感覚に自信を持っていたのではないでしょうか。「近代まえばし史話」が紹介する釜の数の推移を見てみましょう。大久保は原(はら)合名会社時代の富岡製糸所の改革にずっと取り組んできた敏腕の製糸家で、全国でも有名な人物でした。彼は①富岡製糸の所長と兼任する、②群馬社には県が全面的に協力する、などの条件で社長を引き受けました。設立には県が組合員募集、工場建設などで大きな役割を果たしました。当初の組合員は6583名で、群馬・勢多・佐波・利根郡など、明治期からあった組合製糸の地盤外の農家が多く加入しました。突貫工事で建設された群馬社は同年(昭和2年)6月には春蚕繭の出荷を受け入れ、350釜で操業を開始しました。
「近代まえばし史話」より (以下の太字は同書)
●昭和2年350釜⇒昭和3年710釜に増設⇒昭和4年、福田館製糸(旧尾島町)を借り450釜の東毛工場開設⇒昭和5年320釜の沼田工場新設⇒昭和6年350釜の安中工場設立
生糸販売高は設立時の昭和2年に92万円だったのが7年には404万円と4.4倍に増えました。組合員も1万人以上増えて1万8000人に及びました。
この数字だけを見ていくと、順調な経営にも見えますが、拡大路線により借金が膨らんでいきました。民間の片倉製糸や郡是製糸に対抗するかのように大型化するのは、養蚕農家らが出資する組合製糸としては異例のこと。ただ、時代は昭和恐慌の真っ只中にあり、この後、凋落の一途をたどります。再び「近代まえばし史話」からの引用です。
恐慌で生糸価格は変動が激しく、時には恐慌前の半値以下に暴落することもありました。繭価格も下落して組合員の養蚕農家も打撃を受けました。特に(昭和)8年の生糸価格の変動は激しく、その対応に失敗した群馬社では決算が赤字となり組合員も損害を受けました。
群馬社では翌年9年に一部の組合員が「会社幹部に不正があった」として前橋の検事局に告発する事件が起きました。ちょうどこの年の11月に昭和天皇が特別大演習で来県し、群馬社にも行幸する予定だったので世論が大きくわきました。幹部たちは無実を主張しましたが、県は同社への行幸を辞退することに決定し、責任を痛感した大久保社長は自殺してしまいました。これが群馬社事件です。
蚕種とは蚕の卵のことで、専門業者によって製造されてきました。養蚕農家はこの卵を孵化させて育てるのが一般的です。蚕種農家として有名のなのは何といっても伊勢崎市境島村の田島弥平であり、その旧宅は富岡製糸場と並んで世界文化遺産の一つとなっています。
一方、大規模な製糸業者は蚕種製造まで手掛けるようになっていきます。群馬社もこの流れに乗る中、仕事を奪われる立場にある蚕種業者と利害関係が対立するようになります。
告発の中心となったのは蚕種業の組合員で、彼らは社が進めていた蚕種直営政策で仕事が奪われることに不満でした。大久保社長は繭の高騰で組合員から原料繭が集まらないと考え、前年の8年に新潟県など社外から繭を購入し生糸の欠損を生んでいました。これが「不正」と疑われたのです。一切、組合員の中には繭が高いと群馬社には出さず営業製糸に「売抜け」する人が多かったのです。後の県の調査では「幹部には不正なし」とされ、告発も取り下げられました。
昭和恐慌という荒波をもろに受けた群馬社は短期間のうちに隆盛と挫折を経て、復活することなく、姿を消していきます。事件後も改革が進められたものの、業績回復はうまくいきませんでした。
(昭和)17年には群馬県繭糸販売組合連合会(県糸連)が設立され、群馬社など県内すべての組合製糸は解散し一つに統合されました。
18年には唯一残っていた新前橋の工場は軍需工場の沖電気へ売却処分され、20年8月5日の空襲で全焼してしましました。戦後の一時期、一部が群馬製糸所として再出発しましたが、26年には閉鎖されてしまいました。現在、群馬社の遺構は全く残っていません。
繁栄と挫折に彩られ、20年も満たずに終焉を迎えた群馬社ですが、養蚕農家らが出資する組合が積極果敢な経営路線を取り、時代の荒波にもまれながらも挑んだ挑戦の歴史は記憶にとどめておくべきでしょう。
工場があった場所は現在の群馬社会福祉専門学校周辺で、多くの住宅が立ち並んでいます。現地を歩いてみて、その遺構が何ひとつ残っていないというのは寂しく、組合製糸場がこの地にあったことを示す碑でもあったらいいと感じました。
今回、引用した「近代まえばし史話」は前橋市立図書館東分館でも借りられますので、興味のある人は読んでみてはいかがでしょうか。養蚕・製糸業を軸としながら前橋の近代の歴史が分かりやすく書かれています。