道端や住宅街の一角にひっそりとたたずむ古今の石碑や石塔。前橋市東地区にも様々なところに建立されています。それは街道を示すものであったり、小学校の跡地を遺すものであったりと多岐に渡ります。普段は意識せずに通り過ごしてしまいがちな〝小さな遺産〟に、興味を持っている人もいるのではないでしょうか。
その中のひとつに、猿田彦神の石塔があります。
上新田町公民館の西側など、東地区内のところどころで見受けられます。近くにも前橋市朝日町の猿田彦神社や、高崎市の井野町猿田彦大神があり、猿田彦神は全国的にも祀られることの多い神様です。
猿田彦神は『古事記』や『日本書紀』に登場する神の一柱です。
天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、高天原から地上に降り立つ際に、道案内をしたと言われています。長い鼻と赤い顔が特徴で、「猿田彦」の名の通り猿のような見た目で伝わっています。
鎮座する大小様々な石塔
そんな猿田彦神の石塔を、稲荷新田町では特に見ることができます。
落ち着いた雰囲気の住宅街の中に、二本の松と共に猿田彦の石塔が立ち並ぶ場所があります。反対側の道までよく見通すことができる畑を背にして、ゆったりと鎮座する大小様々な石塔。あちこちに散らばって建立されている猿田彦神の石塔が一堂に会するその様子は、静かに胸を打つような荘厳さがあります。
土地を囲むように連なった石塔の横には、「史跡 猿田彦大神の石塔群」と真新しい字で書かれた石碑も立っています。その石碑は、これらの石塔が明治27年から明治30年にかけて日清戦争に出征した兵士の無事を願う気持ちや、感謝の気持ちを込めて建立されたことを伝えています。
いにしえの人々の願いや祈り今に伝える
また、東地区についてまとめた『あずま・てくてく』(平成9年)という本では、この石塔群を「庚申塚(百庚申)」として紹介しています。庚申の日には、集落や家族で家運隆昌や無病息災を願いました。「庚申」は「かのえさる」とも読み、さるの信仰と結びつくため、猿田彦神が祀られるようになったといいます。先ほど紹介したように、猿田彦は道案内の役割を担った神様であるため、道の脇に佇む猿田彦神の石塔は、道祖神としての側面もあったようです。
猿田彦神を祀る風習は、あまり珍しくないかもしれません。しかし、その土地に建立されている、その地域だけの理由は確かにあるようです。かつて生きていた人々の願いや祈り、想いがそれぞれの石塔にこめられています。