「『つ』と『ち』の二つの札だけで30分は話せる中身があります」
「上毛かるたで見直す群馬の姿」と題し、高崎商科大の熊倉浩靖特任教授が7月20日、前橋市の東公民館で講演しました。
東地区の生涯学習奨励員向け研修の一環ですが、一般含め約50人が参加。
熊倉さんは冒頭、群馬県民なら誰でも分かる上毛かるたの中でも代表的な「つる舞う形の群馬県」「力あわせる200万」の二つを取り上げました。
「つる舞う形の群馬県と言いますが、実は、はじめからそうではなかったのです」。
明治4(1871)年の廃藩置県により第一次群馬県ができた時、「鶴」の頭に当たる、館林邑楽、太田桐生などは栃木県だったと説明。明治9(1877)年の第二次群馬県発足により、今の形になったと解説しました。
「だから、東毛の方に会うと言うんですよ。みなさんが戻ってきてくれたので群馬県はやっと頭ができました(笑)」。ユーモアたっぷりに話は縦横無尽に展開していきます。
群馬地域の古い呼び方や表記が「上毛野」(かみつけの)から上野(こうずけ)となっていった変遷にも触れました。
来場者はうなづいたり、メモを取ったりしながら話に聞き入っています。
話題は「力あわせる200万」へ。初の国勢調査が行われた大正9(1920年)、全国の人口は約5600万人、群馬県は105万人でした。
全国が50年で倍増したのに対し、群馬県は倍の200万人になるのに75年かかったと指摘しました。そして、群馬県における戦前の人口集積の高さに言及。要因として、養蚕とともに、太田・小泉工場に計約10万人の従業員がいたという中島飛行機の存在を挙げました。
「人が集まってくるということは、ここで暮らせるということ。戦前、群馬県は大変に豊かでした」。
その後も「理想の電化に電源群馬」「日本で最初の富岡製糸」「浅間のいたずら鬼の押し出し」など、上毛かるたを切り口に、〝深イイ話〟が続きました。